さらば、ダイエー!流通革命家・中内功の目指したものとは何だったのか?

ダイエーがついにイオンに完全に吸収されて、完全に消滅します。
日本の流通業界に文字通り革命を起こした企業でしたが、なぜダイエーはここまで凋落したのでしょうか。
その原因は当然、ダイエー創業者にして、カリスマ経営者、中内功の存在なしには、語れないでしょう。
日本の流通業界の革命児、中内功はどこで誤ったのか。

ダイエー消滅 イオンと同じ拡大路線で明暗分けたのはなぜか
 http://www.news-postseven.com/archives/20140926_278490.html

完本 カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」 上 ちくま文庫 / 佐野眞一(ノンフィクション作家) …

日本流通の革命児、ダイエー

色々 001

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%BC

1957年(昭和32年)に兵庫県神戸市で創業。20世紀の日本の流通・小売業界を発展させた代表的な企業としても知られ、ショッピングセンターやゼネラルマーチャンダイズストアを日本で初めて導入した。

創業者中内功の生まれ育った阪神地区を中心に商圏を築き、1960年代後半から1970年代にかけて大きく発展し、全国展開を進めた。1980年代には、全国各地の地場スーパーマーケットと提携し傘下に納める形でグループを形成していった。

小売業に関しては、創業以来一貫して「価格破壊」をスローガンとする拡張路線を進めてきた。価格破壊とともに質への需要などニーズが多様化すると、「ダイエー」のほかに「トポス」「ビッグ・エー」「Dマート」「グルメシティ」「Kou’s」「プランタン」など業態ブランドを拡大化し多様化する消費者ニーズに応えながらも流通革命により価格破壊を志向する「よい品をどんどん安く (GOOD QUALITY BEST PRICE)」「お客様のために (For the Customers)」の方針で事業が進められてきた(一時はグループ企業が300社あり、大阪国際女子マラソンなどでグループ各社の一覧が流れる企業CMも存在した)。

小売業以外にもホテル、大学、プロ野球、出版、金融など事業分野の多角化に乗り出し、特に、創業者の故郷である神戸市内とプロ野球球団の本拠地に定めた福岡市内で、グループ子会社とともに事業を数多く手がけた。

家族みんなでおなかいっぱいすき焼きを食べたい

http://www.jri.co.jp/page.jsp?id=5932

  中内功 の信念は、強烈な戦争体験から生まれている。通信兵として出征した中内は、フィリピン・リンガエン湾の戦闘で敵の手榴弾を受けた。死を覚悟したとき、なぜか神戸の実家で家族そろって裸電球の下ですき焼きを食べている風景が頭の中に浮かんだと言う。「ああ、もう一回、腹いっぱいすき焼きを食べたい・・・」。この思いが中内の原点となっている。

 1945年11月、フィリピンから復員。復員を機に、神戸市兵庫区にあった実家(サカエ薬局)に、1948年、元町高架通に新たに開店した「友愛薬局」で、業者を相手に闇商売を行った。
旧制神戸経済大学(現・神戸大学)に戦後設置された第二学部(夜間)に進学するも、商売に専念する為に中退。6年後の1951年8月には次弟の設立した「サカエ薬品株式会社」が大阪平野町に開店した医薬品の現金問屋「サカエ薬局」(店名は実家の屋号でありかつ祖父の名前から採用した)で勤務
サカエ薬品を離れ、1957年4月10日に神戸市長田区を本店とする「大栄薬品工業株式会社」を末弟と設立し、製薬事業に参入。ただしすぐに撤退する。
同年7月、九州のスーパー「丸和フードセンター」社長吉田日出男の要請を受けて小倉に向かい開店の援助をしたことから、吉田の提唱する「主婦の店」の名称を加盟費抜きで貰う。9月23日に、この会社にて大阪市旭区の京阪本線千林駅前(千林商店街内)に、医薬品や食品を安価で薄利多売する小売店『主婦の店ダイエー薬局』(ダイエー1号店。のちに千林駅前店に改称し1974年まで営業)を開店した。当初は今日のドラッグストアに相当する薬局で、後に食料品へと進出していった。

松下との血で血を洗うダイエー・松下戦争

中内は「価格の決定権を製造メーカーから消費者に取り返す」ことを信念として、「いくらで売ろうとも、ダイエーの勝手で、製造メーカーには文句を言わせない」という姿勢を貫き、メーカーの協力が得られない場合は、「自らが工場を持たないメーカー」として、そのスーパーのオリジナルブランド「プライベートブランド(PB)」の商品開発を推進するようになるが、同時に既存大手メーカーとの対立を巻き起こした。

1964年、松下電器産業(現・パナソニック)とテレビの値引き販売をめぐって『ダイエー・松下戦争』が勃発した。当時、ダイエーが松下電器の製品を希望小売価格からの値下げ許容範囲だった15%を上回る20%の値引きで販売を行ったことがきっかけとなり、松下電器が仕入れ先の締め付けを行い、ダイエーへの商品供給ルートの停止でダイエーに対抗した。
この時の松下幸之助の考えは「儲けるには高く売ることだ。今後、高い水準に小売価格を設定するので、これを守りなさい。安売り店への出荷は停止する」であった。これを受けてダイエーは松下電器を相手取り、独占禁止法違反の疑いで裁判所に告訴した。
1970年、メーカーの二重価格の撤廃を求める消費者団体が、強硬姿勢を崩さない松下に対して松下製品の不買運動も決議した。同年に、公正取引委員会が二重価格問題に対して、「メーカー(松下側)に不当表示の疑いあり」という結論を出している。同じ時期、ダイエーは13型カラーテレビを「BUBU」というブランド名で当時としては破格の安さである59800円で販売したことから、松下との対立が激化した。
松下幸之助は、1975年に中内を京都の真々庵に招いて、「もう覇道はやめて、王道を歩むことを考えたらどうか」と諭したが、中内は応じなかった。この対立は、松下幸之助没後の1994年に松下電器が折れる形で和解となった。この対立は「30年戦争」とも呼ばれた。
日本流通業界の王者として君臨

 1972年には百貨店の三越を抜き、小売業売上高トップにまでのしあげた。1980年2月16日に日本で初めて小売業界の売上げ高一兆円を達成した。

また、紳士服のロベルト、ファミリーレストランのフォルクス、ハンバーガーチェーンのウェンディーズ・ドムドムハンバーガー、コンビニエンスストアのローソン、百貨店のプランタン銀座など子会社・別事業を次々と展開していった。

また、イチケンやリクルート(現・リクルートホールディングス)、忠実屋、ユニードなどを買収(その後1994年に忠実屋・ユニード・ダイナハを合併)、1981年には高島屋の株式を10.7%分・取得。グループ内にデパートを欲していた中内は高島屋との提携を求めるが、ダイエーによる乗っ取りを警戒した高島屋側の白紙撤回により失敗する。ミシンの割賦販売で実績のあったリッカーの再建を引き受け、その割賦販売のノウハウを子会社のダイエーファイナンス(現・セディナ)に導入した。

 1988年にはパシフィック・リーグの南海ホークスの株式を南海電気鉄道から買収してプロ野球業界へも参入、福岡ダイエーホークスを誕生させ、更に東京ドームを凌ぐ大きさである福岡ドームの建設に着手するなど、グループを急拡大させた。このとき、中内はホークスについてよく知るためにホークスを扱った漫画「あぶさん」の作者、水島新司とホークスについて対談した。
1988年4月には神戸・学園都市に長年の悲願であった流通科学大学を開学。大学職員は全員当時のダイエーから出向させ、同時に理事長に就任した。同年9月には自らの故郷・神戸の玄関口である新神戸駅前に、ホテル・劇場・専門店街が一体となった商業施設新神戸オリエンタルシティを誕生させた。また、1991年には経団連副会長に抜擢。それまで、製造業や銀行などの、他業種より格下と見られていた流通業から初めて抜擢されるなど、名実共に業界をリードする存在となった。

 バブル崩壊、阪神淡路大震災・・・そしてダイエー連合崩壊

1990年代後半になってバブル景気の崩壊により地価の下落がはじまり、地価上昇を前提として店舗展開をしていたダイエーの経営は傾きはじめた。また、店舗の立地が時代に合わなくなり、業績も低迷。さらに展開していたアメリカ型ディスカウントストアのハイパーマートが失敗、当時の消費者の意識が「安く」から「品質」に変わったこと、家電量販店などの専門店が手広い展開を始めたことなどから、ダイエーは徐々に時代の流れに遅れをとった。
90年代後半には、ジャスコを経営するイオン、ローソンのライバルであるセブン-イレブンの当時の親会社イトーヨーカ堂などが業界をリードするようになっており、当時の世間からは「ダイエーには何でもある。でも、欲しいものは何もない」と揶揄されるようになった。中内自身も晩年、「消費者が見えんようなった」と嘆くこともあった。

バブル崩壊後の不況の中、1995年1月17日5時46分、阪神・淡路大震災が発生。東京・田園調布の自宅で知った中内は、ただちに物資を被災地に送るよう陣頭指揮。国より速くフェリーやヘリを投入して食料品や生活用品を調達したことで、一部で見られた便乗値上げに対し、物価の安定に貢献した。そのため、大災害が起きた際には暴動が起こる例も世界中には少なくないが、ダイエーが根付く神戸ではそうした騒ぎが起きなかった。

しかし一方で、この地震により、被災地神戸にあったダイエー7店舗のうち、半数以上の4店舗が全壊、コンビニのローソンを始めとするダイエー系列店約100店もの店舗が被災するなど、関西発祥のダイエーの金銭的被害は甚大で、バブル崩壊のさなかで業績が低迷しつつあったダイエーの凋落に拍車をかけることとなった。判明しただけでダイエー社員も、この震災により30名以上亡くなっている。

カリスマの晩年

2001年に「時代が変わった」としてダイエーを退任。しかし遅すぎた決断であり、あらゆる部門で問題が露呈していた。最後の株主総会では厳しい質問が続き、2時間36分の大荒れ総会となった。その中で、勇退の辞として過ちを認め謝罪した後、まだ総会が終わっていないにも関わらず壇上を降りて去ってしまう一幕があり、会場はあっけにとられたが、株主から「議長、中内さんがあんまり寂しすぎる!拍手で送ってあげたい」との声があがり、再登壇した中内に満場の拍手が鳴り止まなかった。その午後、退任する中内と新経営陣の高木邦夫がそろって記者会見を開いた。その席上、中内は完全に経営から退くことを表明。

その後は、自身が私財を投じて設立した流通科学大学を運営する学校法人中内学園学園長に専念。2000年に流通科学大学では職員が大学籍になり、新神戸オリエンタルシティも、2004年に売却されダイエーの手から離れた。
2004年12月には芦屋と田園調布にあった豪邸や所持する全株式を売却処分、私財からダイエー関連資産を一掃し、名実ともにダイエーと決別した。翌年の2005年8月26日、流通科学大学を訪れた後神戸市内の病院で定期健診中に脳梗塞で倒れ、療養中の9月19日に転院先の神戸市立中央市民病院において死去した。倒れてから亡くなるまで、意識が戻ることはなかったという。享年83。

逝去した際、田園調布の自宅・芦屋の別宅が差押となっていたため、一度も中内の亡骸を自宅へ戻すことができずに大阪市此花区の中内家が眠る正蓮寺にそのまま搬送され、ごく近親者だけでの密葬となった。本葬儀は流通科学大学の学園葬で行われ、林文子会長(当時)ら経営陣は参列したが、ダイエーは、当時の状況(産業再生機構入りし再建中)も踏まえた上で社葬を行わなかった。

中内ファミリーしか信じられなかった孤独な独裁者

http://biz-journal.jp/2014/09/post_6139.
html

1970~80年代には日本最大の小売業にまで上り詰め、流通業界のリーダー的存在として君臨したダイエー転落の遠因としてよく挙げられるのが、中内功元会長が太平洋戦争フィリピン戦線で味わった苛烈な飢餓体験である。人肉食いの噂が常につきまとう戦場から奇跡的に生還した中内氏は、他人を信用できなかった。人間不信から、傅氏、力氏ら弟たちをはじめ有力幹部を次々と放逐。東京・大田区田園調布の豪邸の近くに、長男・潤氏、長女・浅野綾氏、次男・正氏の家を建て、中内家が住む一帯は“ダイエーの天領”と呼ばれた。

そんな強烈なリーダーに率いられたダイエーは80年2月期、初めて小売業で売上高1兆円を達成。次なる目標として4兆円構想を打ち出した。小売業の華である百貨店事業への進出を掲げ、フランスの百貨店オ・プランタンと提携した。百貨店の問屋ルートを確保できないまま、プランタンは神戸三宮、札幌、大阪千日前、そして東京・銀座と立て続けに出店したが、商品力の弱さは致命的だった。V革ではまず、百貨店事業の撤退に着手した。「過去の『ワンマン中内』を知る人には信じられないだろうが、私はこのとき、計画の立案から実行までのすべてを若手に任せた」(前出『私の履歴書』より)
河島氏は若手幹部を指揮して、利益を重視した経営へと軌道修正した。在庫管理を徹底して3年後の86年2月期決算では連結利益を黒字転換させた。V革が成功すると中内氏は第一線に復帰し、ダイエーは元の“中内商店”に戻った。河島氏は、中内氏が再建を引き受けたミシン製造会社リッカーの社長に飛ばされた。ダイエー本体からの事実上の追放である。さらにV革を支えた若手幹部たちは経営中枢から次々と関連会社に出され、多くは退社を余儀なくされた。

 そして中内氏がやったことは、長男の潤氏を31歳の若さでダイエー本体の専務に抜擢することだった。「自らの復権と長男・潤を社長にするためのレールづくりに腐心した。これがダイエーが解体される元凶となった」と元役員は証言する。イトーヨーカ堂のオーナー、伊藤雅俊氏もこの時期、副社長の鈴木敏文氏を中心とする業務改革に取り組んでいた。成果が上がると伊藤氏は鈴木氏にバトンタッチし、伊藤氏は経営の第一線から退いた。さらに後継者とみられていた長男も退社し、その後、イトーヨーカ堂を擁するセブン&アイ・ホールディングスは日本最大の流通グループに成長した。危機に直面した2人のオーナーの対応の違いが、両社の運命の分かれ目となった。

ダイエーには、昔よく家族で買い物に行っていました。ダイエーが無くなっても、これからはイオンでお世話になります。

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